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論文ボックス

渡邉です。書き込みもいくつもいただきありがとうございます。

会場で何人かの方とお話しましたが、「塾生同士が互いの論文を読んでいない」状況を変えるため、暫定的に「論文ボックス」としてこのトピックを立てました。使い方は……

3月13日に追記しました(酒井)。

・ここにコメントとして各自の論文(長文でしょうが)をペーストする。
・折りを見て、パスワードを知っているメンバーが整理し直す。

という段取りでいかがでしょうか。
とりあえず、書式として
「Name:」欄に「渡邉/実測調査の報告」
のように、姓(イニシャル可)と略題を入れてください。
じっくり皆さんの文章を拝読したいので、
公開しても構わない方、ぜひ投稿よろしくお願いいたします。
なお、長文で分割しないと入らない方、時間がない方は、
w_yoshi@ari.bekkoame.ne.jp
あてにデータを送っていただければ処理させていただきます。

3月13日追記
酒井@昌平河岸です。とりあえず「論文ボックス」カテゴリーをつくりました。自分で論文の投稿が可能な方は、「論文ボックス」カテゴリーの方に入れて下さい。新規記事の投稿方法がわからない方は、今まで通りコメントの方に投稿してください。
本間さんと、三浦さんの論文は新しいページに移行しました。お手数ですがページの確認をお願いします。転記漏れ等がないようでしたら、コメントから削除したいと思います(できればご自分で削除していただけると助かります)。また、画像テータを添付する事が可能になったので、図等をアップしていただけると読み易くなると思います。
  1. 2007/03/12(月) 13:40:39|
  2. 座学/フィールドワーク
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フェズ・メディナにおける街路の迷路化に関する一考察

今回の修了論文をアップします。
図がないので、わかりづらい点があるかもしれませんが、ご了承ください。

モロッコの概要

 別名マグリブとも呼ばれるモロッコは、地理的にはアフリカ大陸の北西の端に位置している。マグリブとはアラビア語で日の沈む地を意味する。アフリカ大陸とはいえ文化的にはアラブ・イスラム文化圏に属している。つまりマグリブという名にはイスラム世界の西の端という意味合いもある。
 この国の西側には大西洋、北は地中海、東はアルジェリア、南にはサハラ砂漠が広がっており、サハラ砂漠の向こうはブラックアフリカである。モロッコというと日本では砂漠の国というイメージが一般的であるが、地中海性気候、大西洋気候、内陸気候、山岳気候、半乾燥気候、砂漠気候と、その気候は実にバラエティーに富んでいる。季節は雨期と乾期があるが、全体的に降水量は少ないと言える。
 国土面積は44,6万k?(西サハラ除く)で日本の約1,2倍、人口は3008万人(2003年)、そのうちアラブ人が65%、ベルベル人が30%と言われている。ベルベル人とは紀元前3000年頃からこの地に住んでいると言われている先住民族の総称である。宗教的には両民俗ともイスラム教で、国民のほとんどがイスラム教徒である。
 大陸の端にあるこの国はまた歴史にも翻弄された国である。先住民族ベルベル人の土地であったこの地に、紀元前にはフェニキア人が到来してカルタゴの植民地となり、その後、ローマ帝国、ビザンチン帝国の勢力争いの場となり、7世紀にはイスラム教徒、おもにアラブ人が到来。8世紀にはモロッコ最初のイスラム王朝が興る。以後、数々のイスラム王朝の変遷を経て、1912年フェズ条約によりモロッコはフランスの保護領となる。第二次大戦後の1956年、晴れてフランスから独立するが、現在までフランス統治時代の影響は様々なところで多く残っている。

(図1:モロッコの地図)

フェズ

 フェズはモロッコ最古の王都であり、日本ならさしずめ京都にあたると言えるだろう。789年、バグダットのイスラム王朝アッバス朝への反乱に失敗したイドリス一世はフェズ川の右岸にモロッコではじめてのイスラム王朝、イドリス朝を興し、この地を都と定めた。イドリス一世の死後、その息子イドリス二世がチュニジアのカイラワンやスペインのコルドバからの移住者を受け入れ街は大きく拡大した。フェズの旧市街はフェズ川を挟んで右岸をアンダルース地区、左岸をカラウィーン地区と呼ぶが、これはその当時、右岸にスペイン・コルドバからの移住者、左岸にチュニジア・カイラワンからの移住者が住んでいたことに由来する。フェズはその後マラケシュなどに首都の座を奪われるも、いくつかの王朝のもとで発展を続け、宗教、芸術、商業の都としての地位を保ち続けた。首都がラバト、経済の中心がカサブランカとなった今でも、フェズは宗教的中心都市としての威厳を保っている。
 フェズは100万を超える人口を擁するモロッコ第2の都市である。フェズの街はモロッコ内陸北部、リフ山脈とモワヤン・アトラス山脈に挟まれた盆地にある。
 現在のフェズの街の構成は、保護領時代にフランスが建設した新市街と旧市街に大きくわけられる。新市街はヨーロッパ近代の都市計画に基づいて作られている。一方、メディナと呼ばれる旧市街の面積は約350haで、街全体が高い城壁に囲まれ、その内部は細い路地と無数の袋小路が血管のように走り、一つとしてまっすぐな道がない。そこは今でも約36万人の住人が暮らす超過密都市である。細い道に対して隙間なく並んだ家々の壁は高く、通りに面した窓もほとんどないので巨大な迷路を歩いているような感覚に襲われる。迷宮都市として知られているこの旧市街は1976年にユネスコ世界遺産に登録された。

(写真1:フェズメディナ全景、手前は城壁。建物が斜面を埋め尽くしている。)

 このようにフェズの街は迷宮的と形容されることが多いが、なぜこのように迷宮化したのか。一般的な説としては外敵からの防御という事がよく言われるが、2年間フェズ・メディナを歩き、体でこの街を感じた者としてはこの防御説には違和感を覚える。
 本稿では、まずフェズ・メディナの特徴について述べ、その後にフェズ・メディナ迷宮化の過程について仮説を提示することとする。

街の地形と構成 

 旧市街は大きく二つの部分に分けられる。一つは旧市街の中では新しく拡張された部分で、王宮のあるフェズ・ジュディッド(新しいフェズ)。もう一つは、フェズ川の両岸に広がるフェズ・エル・バリ(古いフェズ)である。フェズ・エル・バリは先述のように右岸のアンダルース地区と左岸のカラウィーン地区に分かれており、中央を川に分断されたすり鉢上の地形となっている。このすり鉢の内側は住居や宗教施設、商業施設などに埋め尽くされており、その様子はさながら細胞の顕微鏡写真のようである。街の中心は、フェズ・エル・バリ右岸ではアンダルースモスク、左岸ではカラウィーンモスクである。

(図3:フェズ・エル・バリ断面図)

都市施設と道 

 旧市街には住宅の他にモスク、マドラサ、フォンドク、ハンマムなどの都市施設がひしめいている。モスクは言うまでもなく、イスラム教における礼拝施設であり、多くの人々が祈りのために訪れる。中でもメディナの中心部にあるカラウィーンモスクは北アフリカ最大のモスクである。マドラサはかつてイスラム神学を教える学校であったが、今は大学などに取って代わられ神学校としての機能はなくなっている。フォンドクとは隊商宿のことで、キャラバンを組んで商いをしながら旅をしていた商人達の宿泊施設であると同時に商取引の場であった。今では、その多くが工房や商店として利用されている。ハンマムはイスラム世界独特の蒸し風呂であり、公衆浴場である。各住戸に浴室を持たないメディナの人々にとって、ハンマムはいまでも体を清潔に保つ場であると同時に近所の人たちとの語らいの場でもある。モスクやハンマムなどの施設が、イスラム法に基づく都市計画によって数世紀前から街の主要施設として盛り込まれ、建設されていたというのは驚きである。
 街は高い城壁(城壁とは言うもののフェズ・エル・バリには城や王宮はない)で囲われており、その内部へは門を通って入る。門は10数カ所あり、それぞれが往時の交易ルートに呼応している。例えば、北のギッサ門は地中海方面、南のフトー門はサハラ方面といったように。 
 城壁の内部は曲がりくねった細い路地が多く、今でも限られた場所を除けば自動車は進入できない。また、道のほとんどが階段や坂道なので、今でも物資の運搬にはロバやラバが使われている。メディナの中を歩くと背中に木材や土嚢を満載したロバにたびたび出会う。
 一見無秩序に見える通りには、ヒエラルキーがあり、主要通り、街区通り、袋小路に分けられる。
 主要通りには間口一間から二間ほどの商店がぎっしり建ち並んでいる。肉屋、八百屋、魚屋の他にも雑貨屋や床屋、洋服屋、また、観光都市でもあるフェズでは土産物屋も多く、いつも多くの買い物客で賑わい非常に活気がある。
 商業地域であると同時に生産の場でもあるメディナでは、小さな工房の多い地区へ行くと服や革製品、陶工、金属加工などの現場を見ることが出来る。中でも革製品はこの街の重要な産業であり、タンネリと呼ばれる革なめし場では、様々な色の染料の入った桶が並び職人達が昔ながらの方法で革を染めている。
 街区通りは街区と街区を結ぶ道で広さは主要通りとあまり変わらない。しかし、主要通りと違って商店が立ち並んでいることはなく、せいぜい小さな雑貨店や工房となっているフォンドクがある程度でほとんどが住宅である。騒々しい主要通りとは違って人通りも少なく、パン焼き釜にパンを運ぶ女性の姿や道ばたに座って語らう男たちの姿などが見られる。
 主要通りや街区通りからは無数の袋小路が延びており、中には大人が横になってやっと入れるくらいの道もある。サーバートと呼ばれる道の上に建物がかかっている箇所も多く、薄暗い袋小路はそこに住むもの以外は入り込みづらい雰囲気がある。
 こういった界隈は住宅地であり、通りを挟む高い壁は四角い中庭を持つフェズの伝統的な住宅の外壁である。フェズの住宅はほとんどの場合、壁を隣家と共有しており、建物境界はそのまま道路境界であり前庭もない。また、プライバシー保護のため通りに面した窓も少ないため、住宅街の通りは曲がりくねった壁にかろうじて鉄の鋲を打った重々しい木製のドアが見られるだけの閉鎖的な印象である。
 通りから住居内部へ入ると中庭が屋上まで吹き抜けており、そこから青空が覗いている。部屋は中庭を囲んで配置され、床や腰壁は色とりどりのモザイクタイル、木の梁は緻密にアラベスクが彫刻されているのを見ることが出来る。こういった住宅はかつてのフェズの繁栄を表すものだが、今ではそういった住宅に住んでいた富裕層が自動車の使えない不便なメディナを出て新市街に移り住んでしまったために、手入れもされず放置されたままになっている住宅も多い。
 また、一方では地方からの人口の流入も問題になっている。仕事を求めてフェズにやってきた多くの貧困層が、メディナ内の廃墟同然の住宅やフォンドクに住んでいる。そういったところでは一部屋に一家族といった過密状態で暮らしており、便所や下水道などのインフラが不足し、劣悪な住環境を作り出しているケースが多く見られる。
 喧噪と静寂が混在するフェズメディナ、一日5回、礼拝の時刻を告げるアッザーンが、街中にあるモスクの尖塔から町中に響き渡る。

フェズ・メディナ迷宮化の謎

  先述のようにフェズ・メディナの道が迷路上になった理由としては外敵からの防御が一般的な理由となっている。しかし、上記のように通りにはヒエラルキーがあり、門から主要通りをたどって行けば、比較的容易に街の中心部にあるモスクに辿り着くことができる。地図上で見るとそのルートは、曲線を描いているものの明確な軸を形成している。
  また、城壁や門は外敵からの防御のためだとしても、城壁内部には防衛のための装置もなければ、昔の軍の施設もない。防衛上の機能は、城壁の外周部にあるカスバと言われる城塞、メディナを見下ろす丘の上にあるボルジュと言われる要塞程度である。ゆえに、迷路状の道は防衛のために意図的に作ったものではなく、他の要因によって形成されたものであると考えられる。

それでは、これほど複雑な道路網はなぜできたのか。その要因として以下に
1. 地形
2. 伝統的水路網
3. 高密居住
4. 公私の分離
の4つを挙げる。

1. 地形
フェズ・エル・バリは、底部にフェズ側が流れるすり鉢状の斜面に立地しており、その高低差は距離1kmで100mほどもある。また、すり鉢状の地形とは言ってもきれいなすり鉢ではなく、尾根や谷などがある。ただし、それらの尾根や谷などにはぎっしりと建物が建っており丘の上から見ても細かい地形を読み取る事はできない。しかし、注意しながら街を歩いてみるとその地形を感じる事ができる。例えば、ブージュルード門からカラウィーンモスク方面へ下る主要通りのタラー・クビーラとそれとほぼ平行して走るタラー・スギーラは谷になっており、2本の通りに挟まれた街区は通りよりも少し高くなっている事が解る。同時にそれら2本の通りを結ぶ街区通りは斜面をトラバースする形でほぼ等高線に沿っている。この事からこれらの道はもともとある自然の地形の上を人間が歩きやすいルートで歩いた結果できたけもの道のような自然発生的な道である事が考えられる。そのため、当然道は直線的にはならずに曲がったものとなる。こういった道のでき方は、理性や概念に基づいた近代的な都市計画における道のでき方とは根本的に違っており、身体感覚に基づいた都市の成り立ちを示していると言えるのではないだろうか。

2.伝統的水路網
 フェズのメディナを歩いていると、通りに面して大小さまざまな泉を見かける。それもそのはずでフェズの街の名は泉という言葉に由来するとも言われている。それだけ昔から水が豊かな都市だったと言えるだろう。これらの泉は多くの場合、通りに面した建物の壁にアーチ状のニッチを作り、それをモザイクタイルで装飾し、水はその壁面から突き出した管から流れ出るといったものである。イスラムの教えには水を独占してはならないという教えがあり、街のあちこちにあるこれらの泉が共同の水場であった。現在では近代的水道施設が各家庭に敷設されているが、各街区に数カ所あるこれらの泉は近所の人たちが水汲みや洗い物に訪れたり、ロバやラバに水を飲ませる姿が絶えない。現在では、それらの泉のほとんどは近代的水道施設に接続されているが、かつて泉に水を供給していたのは、フェズ川の水を利用した伝統的な水路網である。
 この伝統的水路網は12世紀に整備されたもので、フェズ川のネットワークを利用しており、メディナ内における上下水道として機能していた。
 これらの水路網はほとんどが暗渠化されており街を歩いていてもそれを目にする事はほとんどないが、住宅の裏口や家と家の隙間などにわずかに発見する事ができる。水路網図とフェズ・エル・バリの地図を重ねて見ると、これら水路網の主要な部分は街路網と一致していると思われることから街路の形成の主要要因として伝統的水路網が大きく関わっている事が予想される。前項(1.地形)で主要通りであるタラー・クビーラとタラー・スギーラが谷に沿って走っていると述べたが、このことはこれらの通りが伝統的水路網の上に形成された事を示していると思われる。事実、タラー・クビーラにあるマドラサ・ブーイナニアの断面図を見ると、マドラサの地下に暗渠の断面を見る事ができる。もともと沢を利用していた伝統的水路網の上にメディナ内の高密化により建物を建てる必要性が生じたため水路を暗渠化し、その上に街路が形成されたと考えられるのではないだろうか。

3.高密居住
 フェズ・メディナは350haに36万人が暮らす超過密都市である。メディナの城壁は古くは左岸のカラウィーン地区と右岸のアンダルース地区それぞれに囲われていた。11世紀後半に二つの地区が統合され現在のような一続きの城壁で囲われた形となった。その当時は今ほど建物は多くなく、城壁に沿って畑や緑地があったようだ。それが、街が発展し人口が増えるにしたがって、城壁に囲まれた限られた面積に多くの人が住まなければならなくなり、自ずと人口密度が高くなったのだろう。また、住宅は通常2層または3層で中庭を持ち、道路境界がそのまま外壁で、隣地境界は隣の家と外壁を共有している。こういった建て方は土地利用効率が非常に高く、高密居住に適している。地形にしたがって曲がりくねった道路に高い壁を建てて住宅を作れば、見通しも利かないためそこが迷路的な様相を呈するのは自然な流れであろう。さらに、すべてを通り抜けできる道とするよりも袋小路とした方がその一番奥にも建物を建てられるため土地利用効率は高くなる。そのために袋小路がこれほど多くなったのではないかと考えられる。

4.公私の分離
 イスラム法はイスラムの本質と精神から発展し、イスラム教徒の生活の道しるべとなり、あるときには行動を規制するものである。この事はまちづくりにおいても例外ではない。例えば、通りの幅や所有権などについてイスラム法による多くのガイドラインを生み出している。こういったガイドラインの一つにプライバシーの尊重がある。住宅においては私的領域を覗き込むような事は禁止されており、この事からメディナの家では通りに面した窓はあまり設置されず、もし設置する場合でも人の背丈よりもかなり高い位置に作られる。この事によってメディナ内の通りは壁に挟まれた閉鎖的な様相を呈する。
 先に「都市施設と道」の項で述べた通り、メディナの道には主要通り、街区通り、袋小路と言ったヒエラルキーがある。これもまたイスラム法の精神に関連する公私の分離の概念から発生したものであるように思われる。主要通りは道の両側に商店が建ち並ぶにぎやかな通りであり、門から入って中心部のモスクまで主要な軸を形成している。これらの主要通り間、または街区と街区を結ぶ街区通りは主要通りのような喧噪は見られず、住宅の壁だけが続く静かな通りである。そして、主要通り、または街区通りから延びる細い路地は多くの場合通り抜けできない袋小路である。ただ、その長さは数mから数百mまであり、通り抜けできるものと思ってどんどん進んでいくと行き止まりという事もよくある。この袋小路は同じ袋小路を共有する住人のためのものであり、他の通りよりもプライベートな感覚が強い。よそ者が入り込まない袋小路ではしばしば子供たちがサッカーをしているのを見かける。
 このようにメディナ内では公私を分離しているが、それは日本における用途地域のように地域で商業地と住宅地を分ける様なものではなく、商店の建ち並ぶ喧噪に満ちた通りのすぐ裏に静寂に包まれた私的な通りがあり、通りのヒエラルキーによって職住近接を実現している。

街路形成のモデル
1. 谷筋を流れる川。街の中心に向かって川に沿って人が歩き、小径ができる。(図7)

2.川に沿って道が形成され、主要通りとなる。(図8)

3.川が水路網の整備とともに暗渠化され、主要通りの両側に商店が建ちならぶ。  (図9)

4.主要通りと主要通りを結ぶ街区通り    が形成される。(図10)

5.街区通りに沿って住宅が作られる。  (図11)

6.奥の住宅にアクセスするために袋小路が形成される。(図12)

結論~身体感覚によるまちづくり

 これまで述べてきたように、フェズ・メディナの迷路的街路網の形成は、従来言われていたような防衛のためといった人為的意図によるものではなく、自然環境とそこにおける人間の行動パターン、そしてイスラム法が複合したものだと結論づける事ができるだろう。
 都市計画の概念は理性、幾何学等のルールが先行し、そこにもともとある地形などの自然要因を人為的に変形させる、または無視する事で都市を形成してきた。そういった都市を見慣れた者にとって、フェズ・メディナのような都市は混沌として無秩序に思えるかもしれない。しかし、実際にそこに住む者にとっては、彼らにだけわかる秩序が存在している。急な斜面を下るとき人はどのように歩くか、斜面を横切るときどのようなルートをとるか、といったことは頭でわかることではなく、「体が自然にそう動く」という種類のものである。迷宮と称され旅人を迷わす街路網でさえ、碁盤目状でどこも同じような表情をした近代の都市の街路と比べれば、道に導かれ体が赴くままに歩いてみれば、そのわかりやすさに気づかされるだろう。
 近代はあまりにも人間の理性に偏りすぎた。その影響を最も受けた先進国、特に日本のような国では、それがまちづくりだけでなく社会全体に反映されている。人にも街にも生命力が感じられないのだ。
 かといって、価値観も時間の流れも異なる文化を現代日本に移植することは不可能に近い。しかし、理性や合理性だけではなく、自然環境に逆らわず、身体感覚を尊重したまちづくりから学ぶべきことは多いと思われる。










参考文献
・ETUDE DE FAISABILITE POUR LA GESTION DES DECHETS SOLIDES
RAPPORT DE FAISABILITE:VOLUME 1 p.10
SADAT ASSOCIATES MAGHREB,RABAT,MAROC
JUILLET,1998
・Etude pour la requalification de l’axe du Boukhrareb
Marcello Balbo,Daniele Pini
・ Fes avant le protectrat
Roger le Tourneau
Edition la porte
Rabat,Maroc,1987
・ Les Encyclop?dies du Voyage Maroc
Guides Gallimard
・ FES de Bab en Bab
Hammad Berrada
Publiday-Multidia,Casablanca,Maroc,2002
・ イスラム世界の都市空間
陣内秀信・新井勇治編
法政大学出版局、2002
・ イスラーム都市
ベシーム・S・ハキーム著、佐藤次高監訳
第三書館、1990
・ モロッコ・フェズの伝統的水路網
三浦正博、矢島 存 共著
水道公論Vol.42
日本水道新聞社、2006
  1. 2007/03/13(火) 11:12:21 |
  2. URL |
  3. 三浦 #vF6dOJDI
  4. [ 編集]

『perforation(穿穴)の身体化と都市の再構築』


第八期神楽坂建築塾 修了論文
本間※※※


無数のちいさな危険にかまけて、大きな一つを忘れていた。
巣穴をもっているからには、どんなものがやってきても
こちらが有利だと思いこんでいたのか。

・・・巣穴をもつことの幸せに甘えていた。 

(カフカ『巣穴』より)

はじめに.巣穴から穿穴へ
人はいつも自分の巣穴をもつことを夢見てきた。巣穴は、その主にとっての生活の中心であり、身を守るシェルターであり、そして大きな財産である。だからこそ、多くの人々にとって巣穴、すなわち住居(あるいはマイホーム)を手に入れることは、今なお夢の終着点に位置づけられている。

全人口のついに過半数が都市に暮らす今日、とどまることのない地方の都市化や都市への人口流入は、「都市」人口の更なる増加を約束している。それはまた、都市の巣穴が増えることに等しく、人は常にこの巣穴を介して都市を知り、都市と関わっていく存在になることを示唆している。そしてそのとき、夢のマイホームとしての巣穴は、彼にとって世界全体ではない。外に出るための拠点として重要な位置にあることは相違ないが、それは確かに世界のごく一部に過ぎない。どんなに素晴らしい巣穴であっても、彼はやはりその身ひとつで外に出る。

だからこそ忘れてはならないのは身体への言及、すなわち都市に対する身体の主体性を問うことであろう。身体と都市の関係性は、十全な巣穴を所有するか否かとは位相の異なる問題として理解されるべきである。人はヤドカリではない。巣穴から出ることが前提であるがゆえ、これは熟考されなければならず、巣穴建設をめぐる試行錯誤と同等に吟味されるに値する問いだと考え得る。

「身体はどう主体的に都市を捉えるのか。」

本論はこの問いに対して、「せん穿けつ穴」という概念を用いて応答する。なお、穿穴作用を示すための具体的事例として、インドネシア共和国の地方都市バンドンを挙げるが、本論の意図はそこから多様な都市への応用可能性を提示することにある。
1.都市再生計画としてのperforation
 
「穿穴」という言葉は、おそらく日常的にはあまり馴染みがないだろう。一方、都市に関しては、「perforation(穿穴)」という単語が 都市再生計画の文脈で用いられている。このことは「perforation」の登場するような都市が、再生すべきとみなされた、肯定されていない都市であることを示している。そして現に今、市街地の疲弊地区や過疎化する村落、消費の停滞する商店街などを抱える各地で、適正な状態への早急な改善が求められている。では、適正な都市とは何か。快適で居心地の良い空間とは何か。都市や住居において、居心地の良さは追求されるべき要素であり、あるいは与えられるべき権利であると考えられている。一方、その対極にある居心地の悪さやそれに関わる感覚とは、まったく不要な否定要素なのだろうか。この疑問を抱えつつも、まずは、都市再生計画における「perforation」の紹介から始める。以下に、再生プロジェクトの成功例として評価されるスペイン北部の都市、バルセロナの事例から「perforation」の概略を示していく。

1999年、バルセロナはRIBA(王立英国建築家協会=Royal Institute of British Architects)から金賞を授与された。通常、優れた建築家の功績を讃えるこの賞が、都市自体に与えられたのは初めてのことであり、これを機にバルセロナは都市再生の成功モデルとして、ヨーロッパを中心に影響を広げていく。現在では、「バルセロナ・モデル」という名が流通し、都市再生分野で広く使われているが、ここでは旧市街地における再生への取組みに絞って、バルセロナ・モデルを参照したい。
まず、バルセロナ・モデルの基本概念には、「公共空間を人の手に取り戻す」ことが挙げられている。これは旧市街地の抱える問題に起因する。典型的な疲弊地区であるバルセロナ旧市街地は、売春、犯罪、麻薬といった社会問題が1970年代にはすでに深刻化していた。産業革命以前からのこうした都市部は、路地が張りめぐらされた徒歩中心の市街地で、人口密度が極めて高い。低所得者、失業者および移民が居住者の主流をなし、治安の悪さゆえに外部からの人の流入は途絶え、閉じられた内部はますます犯罪の温床と化した。
そこで対応策として提案されたのが公共空間の創出であり、「perforation(穿穴)」の手法であった。具体的にはまず老朽化した建物を撤去し、整備した後、小広場やカフェテラスとして活用する。それは、これ以上の新規建設が不可能な建物密集地区において、やむを得ないと同時に戦略的な手法であった。不要な建物の除去は、閉塞的な空間に陽射しと風を呼び込み、人を集め、人通りを生んだ。建築物をマイナスすることで空間の価値を上げる、これが「perforation」の発想であり、都市内部に気泡を入れるという意味で「スポンジ化」とも称されている。
では、perforationによって住民自身はどう変わったのか。それまで、疲弊地区の住民は、荒廃と惰性とあきらめの中で暮らしていた。劣悪な環境下での日常は、彼らをより無気力へと追いやり、近隣への愛着を奪った。そんな中、既存の建物を減らすというシンプルな手法による公共空間の出現が、地区の明るい風穴となり、新しいアイデンティティを創出し、居住者に肯定的な帰属意識を芽生えさせた。そしてかつては投げやりだった彼らが、ついには進んで手入れするまでに変わったのである。
バルセロナ・モデルをこのような成功に導いたのは、マイナス部分をプラスしていく、という発想の転換であった。一般的に都市の社会資本とみなされるのは、電気やガス、交通などの各種インフラ、通信などの情報インフラ、そして公共施設である。すわなち、多様なモノの集積が社会資本を構成すると考えられている。一方、バルセロナはモノ自体ではなく、その外部にある「空間」に焦点をあてた。それは、建築物を社会資本と認識した場合の残余の部分を指す(註1)。しかし、これこそが空間的ゆとりとして、都市の総体的な質を高めると考え、バルセロナは、従来の新設増加型の都市再開発ではなく、「穴」をあえて「穿つ」手法を選択したのである。
それはまさしく従来の価値の転倒であり、地図に置き換えるならば、地と図はちょうど反転するだろう。建築物を「図」と捉える一般的な都市認識に立てば、余白のスペースは「地」として単なる背景へ後退する。したがって、都市の社会資本を増加するには、新たな建物の追加あるいは建築の高層化等で補充せざるを得ない。しかし余白部分を「図」と捉えるならば、高密度な疲弊地区の場合、既存の建物を除去して空間を増やすことが社会資本の増加へと繋がっていく。(註2)
バルセロナ・モデルが示すのは、都市に「穴」を「穿つ」ことの多大なポテンシャルなのである。

-都市再生計画から身体へ-
都市に穴を穿つことで、空間の活性化が促進される。この場合の活性化とは、単に日照条件や通気性の向上だけに限られない。穴である空間を契機に、人や物が流れる。穴の求心性が人を誘引し、そこまでの移動とそこからの帰還をもたらす。実質的な人の流れは、確かなインパクトとしてその空間を賑わし、魅力を創造し、経済を刺激する。穴を点在させることで、活性化はいっそう増幅される。そして部分としての個々の穴が互いに関係し全体へと連鎖することで、空間そのものが躍動へ向かう。

これらの穴に接近し、よりミクロな視点で凝視するとき、そこに身体が現れる。それは、上述した都市の穴の機能を再現あるいは集約する身体、すなわちperforateする身体である。身体は移動しながら行く先々に空気の流れをもたらし、空間を振動させるインパクトをもって穴を穿つ。都市にはこのとき、再生計画の実践による穴と、身体により穿たれた穴とが重層して存在している。
2. 身体のperforation -事例としての都市バンドン

都市と身体をつなぐ概念としてperforationを提示するにあたり、具体的事例としてインドネシア共和国の都市バンドン(註3)と、フィールドワークを行うため約十ヶ月間、現地に滞在した私自身の身体の経験(註4)を俎上に載せる。もっとも、概念自体は対象をこれに限るものではなく、各都市並びに各身体に相応するperforationが考慮される。


2-1 非日常の身体
【ハレとケ】
 バンドンの日常と、それを調査する私の身体とをperforationを介して読み解くためには、日常および非日常の概念を無視することはできないだろう。

日常に対する非日常、聖に対する俗、ハレ(晴れ)に対するケ(穢)。表現は異なるが、これらはすべて空間に関わる言語であり、また、この二項対立の本質は、対立ではなくむしろ相互補完的な関係にある。「ケ」としての普段の暮らしを営みながら、折に触れて執り行われる「ハレ」の祭事において、日ごろのストレスを発散する。日常と非日常を交互に反復することで、身体は躍動し、リセットされ、新たに生まれ変わる。そしてこの反復が空間にダイナミズムをもたらし、あるいはまた、ダイナミズムを維持するために日常と非日常は反復される。

【儀礼的身体】
 日常から距離を置くこと、すなわち非日常とは、マージナルな場所への移行であり、境界性(liminality)の空間を指す。リミナルな身体への対処法を儀礼的身体の特徴から考察していく。
儀礼とは、日常の流れとしての時間の連続性を遮断し、不連続性を刻印付けることで出現する空白あるいは境界領域である。日常を「ケ」あるいは「俗」とするのに対し、儀礼は「ハレ」、「聖」の役割を担っている。こうした儀礼空間は、ときに身体のトランス状態からカオス化する不安や脅威に晒されているが、そもそも身体にまつわる不安とは、身体が自然的範疇に属すことに起因する。通過儀礼にしばしば見られる身体加工や身体装飾は、自己を理解可能な文化的範疇へと回収し、身体への慢性的不安を解消した。こうしてカオスや苦痛、またその主役であるリミナルな身体は、儀礼という枠組みの中で容認され消化される。したがって、不安や脅威は儀礼空間へ凝縮され、日常の中に持ち込まれないよう制御されている。
では、リミナルな身体が儀礼へと回収できない場合、どう対処するのか。それは日常空間では消化しきれないため、まず、マージナルな領域への排除対象となる。しかし、現実的な土地からの追放が叶わないとき、その身体はとどまり続ける場ちがいなものとみなされ、排除の対象から監視の対象へと変移するだろう。

都市バンドンに投じられた私の身体は、居住者たちの日常におけるリミナルで場ちがいな、すなわち異質な身体であった。そしてそれは、異質性というインパクトを武器に彼らの日常空間にperforateする身体なのである。


2-2 異郷人と異郷化
【異郷人の身体】
では、バンドンの異質性として、perforateするこの身体を何と呼び得るのか。
以下に、ゲオルグ・ジンメルの「異郷人」を参照していく。
 
ジンメルは、その著書『社会学』に収められた『異郷人についての補説』の中で、「異郷人」を「今日訪れ来て明日去り行く放浪者としてではなく、むしろ今日訪れて明日もとどまる者」と意味づけている。そしてさらに「一定の空間的な広がり―あるいは、その境界規定が空間的なそれに類似した広がり―の内部に定着してはいるが、しかしこの広がりのなかにおける彼の位置は、彼がはじめからそこへ所属していないということ、彼がそこには由来せず、また由来することのできない性質をそこへもたらすことによって、本質的に規定されている(註5)」と続ける。
 この異郷人こそが、まさしくperforateする明らかな主体に他ならない。日常の空間の中に非日常を象徴する異郷人の身体は在り、したがって、異郷人が異郷人として定義されるためには、非異郷人との空間の共有が必要になる。そして異郷人の存在はまた、同一空間に内在する身体の位相の複数性を浮かび上がらせる。
一方、空間を満たすものとは、その空間を構成しているものを指す。すなわち空間の共有者たちは各々がその空間の構成要素であり、異郷人もその一つとして機能する。こうした一つの空間とは、外部の登場によって内部が意識され、境界が生まれた結果であるとともに、その境界内に侵入する外部によって更に補強されていく。したがって、空間の性質をより明確化するには、内的な構成要素と外的な構成要素の同居、そして外的要素が内的要素の確認装置となることが不可欠になる。
このように、構成要素でありながらも決して内部に属さない異郷人を、ジンメルは「有機的」であると言う。「非有機的なつながりを通じて」なお、異郷人は「集団のひとつの有機的な構成員」として、空間にひとつの統一性を与える。よって、この統一性とは「ある程度の近さ」(内的要素)と、「ある程度の遠さ」(外的要素)から合成されており、更にこの「近さ」と「遠さ」を一身体に具備したものが異郷人となる。近接と遠隔を同時に表象するもの、近くて遠い存在―それが異郷人なのである。
この空間的近接性及び社会関係的遠隔性は、perforateする身体の検証にとって有効に作用していくだろう。
慣れた近傍を、遠さを映す鏡としての異郷人が闊歩するとき、ひとつの空間の中で近接と遠隔が出会い、縫合される。このとき異郷人は、この縫い目あるいは裂け目から「客観性」をもって空間を捉え返す。ジンメルによる「客観性」とは傍観者としての「無関与とか無関心」を指すのではなく、一つの「関与の型」であるとともに「自由」を併せ持っている。既存の固定観念から自由な立場は、空間内の事象を客観的な「鳥の視座」から捉えられると言うのである。一般に「鳥の目」と表現されるこの視点は、物事を離れた場所から俯瞰し全体をマクロに捉える視点を指すが、果たして異郷人の目はこの「鳥の目」に等しいのだろうか。それは「鳥の目」であると同時に、物事を現場で細部まで注視する「虫の目」でもあるだろう。一方、もともとの居住者の目も「虫の目」として現場を見つめている。しかし、その現場に異郷人を発見するとき、彼はまた内省的に自己を発見するだろう。都市のあちこちで発見される異郷人はその意思に関わらず、身体のインパクトによって自己主張し、居住者へと跳ね返っては彼の身体をも鮮明にあぶり出す。消去不可能な身体という決定的主張が、居住者を居住者として、異郷人を異郷人として、明確に境界付ける。異郷人は「内なる敵」として、常に空間内に緊張をもたらす存在なのである。

ここでバンドンという都市の歴史的背景を概観する。実は、バンドンは異郷人の集住から始まる都市であった。既存の異郷人の存在について以下に参照していくが、彼らはすでに都市バンドンにとっての前提であり、もはや異郷人とは同定しがたい存在となっている。

【既存の異郷人】
『異郷人についての補説』の中で、ジンメルは「商人」の存在について次のように位置づけている。「経済の全歴史をつうじて異郷人はいたるところにおいて商人としてあらわれるか、あるいは商人は異郷人としてあらわれる(註6)」。ここで「商人=異郷人」という関係図式が出来上がる。ある圏域における自給自足的経済が、外部の生産物を必要とみなしたとき、内部の者が直接異郷へ出向く代わりに、商人が異郷人としてやって来る。ジンメルによると「商業は第一次的な生産よりもつねになお多くの人間を受けいれることができ」るため、「もともと経済的な地位がすでに占有されている圏」へ「定員外」の存在として侵入しやすく、商人であることが異郷人としての定着を可能にすると言う。
しかし、バンドンにおける「商人」たちは、内部の者が外部の生産物を求めた結果に生まれたのではなく、むしろ外部の彼らが内部を必要としたのであった。彼らはバンドンの都市化とともに周縁から流入した労働者であり、商人として都市の隙間で商売をした。
現在、多くの開発途上国の都市が抱える重要な問題のひとつに、地方から都市部への人口流入が挙げられる。この問題は、農業の機械化による労働者の余剰や、少ない労働の分配による貧困などを背景にもつ。農村部の人々は、都心に出れば就業機会に恵まれ、現代的設備の整った豊かな生活が待っていると信じて土地を離れる。
 こうした地方からの移民には、特定の地域へ集住する傾向が見られた。彼らはまず同郷の者を頼りに都市へやって来て、同じ地区に住まい、仕事を斡旋してもらう。そして次の新参者が来ると、今度は先輩として同じように振舞う。その結果、同郷者の集住する場所があちこちに点在し、それぞれのエリアは、出身地の郷土料理や方言、他の慣習に満たされた特有の空間になった。「ひとつの侵入」は「たちまち多数化し」、内部の特定の場所に「細分化し差異化され」ていったのである(註7)。こうしてバンドンは都市へと発展してきた。外来性が日常化された結果、地方移民の人口はバンドン全人口の実に約80%(もともとのバンドン人は4分の1以下であり、さらに地方移民の80%は西ジャワ出身とされる)に達するとさえ言われている。異郷人として侵入した「商人」である彼らは、もはや都市バンドンの不可欠な構成要素であり、バンドン市民の主流として十分な存在感を蓄えたと言えるだろう。(註8)

既存の異郷人は、上述の通り居住者の側に属すことを確認するとともに、本論におけるバンドンの異郷人は、引き続き、フィールドワーク時の私の身体とする。
バンドン市民にとって、私の身体は当然まだ異郷人であり、自己の文化的範疇における異質性である。異質性は不安を煽り、脅威となるために排除の対象とされるが、異郷人である私は儀礼的装置をもって回収できない。その代替として、居住者たちは脅威自体を解読しようと異郷人を注視(監視)する。穴の開くほど見つめることで、彼らが不安の解消を図るとき、私という異郷人の属性にその元凶を発見する。そしてそこには見つかるのは、極めて今日的な要素、すなわち共通する同時代性と背反する距離ではないだろうか。

【異郷化される身体】
こうした今日的な不安に関して、ジャン=リュック・ナンシーは「異郷化」という言葉で表現している。グローバリゼーションの進展は故郷と異郷の差異を希薄化させ、人々の間に「帰属の不安」を拡げた。その結果として、「精神的な異郷化が避けられ」ず、同じ土地にとどまっていても居心地の悪さを感じてしまう。それほどまでに世界全体の風景は変わってしまったのだ、と。
 風景の変容に多大な貢献をしたのは、メディアのもたらす膨大な情報である。同時代性を共有するための情報群は、どんな場所にも瞬時に侵入し氾濫する。現実の距離まで超克したかのようなそれらは、通常よそからの「侵入者」とはみなされない。情報とはほとんど無条件に有益であると信じられ、そうでないものは有害情報としてその有害性を強調される。情報という名の道徳的正しさは、それが侵入者であることを「門口で抹消」し、「敷居を超える前に」見事に溶解することにある(註7)。それゆえ情報はよそから来た侵入者であることを咎められはしないが、結果としては、現実の空間における既存の遠近法を崩している。近接と遠隔が混在し、距離が複層的に交差するアンバランスな空間が、人を「異郷化」の不安へと導いていく。

今日のバンドン居住者は、果たしてこの不安の該当者なのか。Merlina Limの図示(出典:『From Walking City to Telematic Metropolis: Changing Urban Form in Bandung, Indonesia』)に基づき、都市バンドンにおける情報通信技術の歴史的発展を追うことで、情報の氾濫あるいはそこに潜む不安を推量する手がかりとしたい。

(1) Walking city 

1800~1900年代のバンドンのコミュニケーション手段は、人や物資の実際の移動に頼っていた。徒歩や馬による移動は、あらゆる活動がより近接した範囲で行われることを要求し、具体的には徒歩の場合は3~6km、馬の場合はその倍程度が限界とされた。Walking cityとは、活動範囲が凝縮された職住近接の都市形態を指す。


(2) Agricultural city
 1895年、バンドンで最初の電話会社が設立された。設立者はK.A.R.Bosschaと言うバンドン北部のプランテーション経営者である。この電話会社の契約者数は157で、その多くは北部のプランテーション経営者たちであった。彼らは市内で週末を過ごしていても、プランテーションの状況を知ることが可能になった。電話により、経営者たちはプランテーションの現場から解放されたのである。一方、電話の誕生は直接対面する必要を奪ったのではなく、離れたビジネスコミュニティーへの参加を容易にし、彼らをいっそう親密にした。
(3) Industrial city

1970年代、バンドン近郊ではテキスタイルを始めとする各種製造業が爆発的な成長を遂げた。電話によるコンタクトが一般化したことで、工場と本部はそれぞれ別の場所に設置されている。その結果として、都市中心部は商業やマーケティング活動の場として確立され、バンドン南部及び西部は製造工場および工場労働者の居住地域として発展していった。
……その2につづく
  1. 2007/03/13(火) 12:09:18 |
  2. URL |
  3. 本間/perforation-1 #SFo5/nok
  4. [ 編集]

(4) Telecommunication city

バンドンは首都ジャカルタに次いで電信と電話が引かれ、ラジオ局、郵便局及び電信電話局はインドネシアで最初に設立された。バンドンが通信技術の中心地として選ばれた理由は、首都ジャカルタからの地理的近接性のほか、バンドン工科大学を中心に、科学技術のシンクタンク的役割を担っていた点にある。現在では、Bandung High
-Tech Valleyというプロジェクトによって、未来のインドネシア・シリコンバレーとみなされている。

(4-1) ワルテル時代
インドネシアでの電話回線契約者は、1980年代は50万件、1990年までに100万件、そして1998年には650万件へと拡大したが、それでも国民全体のわずか3%にすぎなかった。そこで一般への電話供給手段としてワルテル(wartel)が登場する。ワルテル(wartel)とはwarung(店)と telepon(電話)の合成語であり、コインやカード式の公衆電話ではなく、小規模の店舗形式を採用している。1996年、バンドンを中心にワルテル経営がビジネスブームとなる。ワルテルは大学などの教育施設周辺や、低中所得者層の居住地区に積極的に設置された。
  現在もなお固定電話の主流はワルテルであるが、携帯電話(HP=Hand-Phone)の普及率は飛躍的に伸びている。1993年、インドネシアでの携帯電話利用者はわずか約3.3万人であった(同年のマレーシアは22.6万人)が、1995年には19.3万人、1996年には59.3万人へと増加する。それから約十年後の2005年には4200万人に達している。2006年の調査では、インドネシアの携帯電話利用者数はアジア太平洋地区で第4位、全体の6%のシェアを占めている。携帯電話の新機種をもつことは、もはや新たなステータスシンボルとなっている。

(4-2) ワルネット時代
1999年の調査でインドネシアのインターネット利用者はわずか1.2%と報告され、2000年のJakarta Postの調査でも2%にとどまっている。これは上述の通り、一般家庭に電話回線が引かれていないため、必然的にインターネット契約者数も制限された結果と映るだろう。しかし、バンドンの実情はこれと大きく異なると言える。現在、バンドンにはワルネット(warnet=warung:店+internet)と呼ばれるインターネットカフェが100以上あり、一日の総利用者数は4000人以上である。ワルネットは学校や下宿施設の周辺に集まり、既存のワルテルにネット機能を追加した店舗も多い。主な利用者は大学生や10代の学生であるが、これはインドネシアの学生がアルバイトをしないことにも関係があると思われる。放課後の時間を費やす場所として、彼らはワルネットを選び、メールやチャットを楽しむのである。したがって、学生人口とワルネット事業の繁栄は比例し、学園都市であるバンドンには次々と店舗が増設されている。そしてワルネットの集客性が車の流れや行商人の活動エリアに作用し、それらは今、都市の景観を変えつつある。こうした情報通信技術の発展は、都市の形状そのものを変容させる可能性だと言えるだろう。もはや日常風景と化したワルネットから、人々はいつでも容易に情報を取り出せる。どれほど離れた情報にも自在にアクセスし、取り込みたいだけ取り込めるのである。
彼らは今日もワルネットへと足を運び、世界の最新情報をその身の内に飽和させ、路地裏の奥の住居へと再び帰っていくのだろう。(註9)

     
(●:大学施設の所在地)          (●:ワルネット所在地)
(出典:Ahmad Rida Soemardi, Irendra Radjawali 『Creative Culture and Urban Planning:
The Bandung experience』)
これがアンバランスな空間、すなわち人々に不安をもたらす「異郷化」された場所ではないだろうか。しかしこの不安が、「大切なのは、異郷化を恐れないことだ」と言うナンシーの言葉に後押しされて解消手段を模索するならば、それは排除や監視などではなく、異郷化がもたらす「開け」にあると気づくだろう。

この「開け」になるもの、それが穴である。異郷人の身体も排除と監視の対象であると同時に、異質性というインパクトにおいて穴を穿ち、その穴を風穴として開いている。時間とともに増える穴は、やがて都市そのものに反映する可能性を秘めている。

2-3 穴と孔
【都市の穴】
空間内を移動する身体の軌跡を追うとき、それは明らかに一筋の線である。線が指示するのは動線すなわち各目的地への過程であり、ある程度の期間に及ぶならば、日常的な行動パターンの視覚化として見ることもできるだろう。
一身体に照準を当てれば線となるものを、この身体に出会う側に立って描写する場合、そこに現れるのは分散した点の集合である。この点は各場面での〈衝突=impact〉、すなわちある角を曲がった瞬間の偶発的でアフォーダンス的な出会いを指している。これらの点をより鳥瞰的に見るならば、各衝突点は都市に開いた穴として映らないだろうか。そして穴の犯人が異郷人の身体であることは、この点描を、都市にperforateする身体の図として読むことを可能にする。
上記の視点は上空からの目、いわゆる鳥の目であるが、perforationの各場面に立ち会うのは、異郷人および居住者の虫の目である。しかしこのとき、居住者の視線の先にあるのは、異郷人の身体だけではない。異郷人の身体の属性、さらには所属先の空間自体へと向けられている。衝突点に開く穴は、穴の向こう側への欲望と想像力を生み、こちらとあちらを接続している。異郷人の身体はこの瞬間、監視すべき脅威から未知なる可能性を想像させるものへと反転するのである。

【身体の孔】
穴を穿つ身体は、さらに孔を具備した身体でもある。皮膚上に多数の孔を有し、それを通じて呼吸する身体は、いわば孔により常に外部と交流している。また、孔の集合体としての皮膚の下では、浸透圧に基づいて透過と遮断を不断に行っている。こうした機能は、居住者の空間と絶えず調整をはかる異郷人のあり方に重ならないだろうか。それは、内外の差異をなくし、滑らかに移行するための永続的な流動である。ミクロな視点において孔により流動する身体は、マクロな視点ではそれ自身が穴を生み流動を促進する。そしてこの流動性が、空間に動態性と躍動を与えている。(註10)
3.都市と身体のperforation

【空間の躍動性】
空間の躍動には、先に述べた「ハレ」の機能が関係する。空間にダイナミズムをもたらし、活性化させる装置としての「ハレ」である。したがって、異郷人の身体とは既存の空間において「ハレ」の機能を果たしていると言える。
本来、日常空間とは「ハレ」と「ケ」の反復の上に成立している。あるいは「ハレ」を内包したものが「ケ」であるとも考えられる。すなわち、非日常を所与のものとして、日常は規定されている。
しかしながら、古来の「ハレ」の風習は、過去と同等に機能しているだろうか。季節行事は減少し、儀礼の多くが衰退していることに加え、それらはかつてのような効力を有しているとは明言しがたい。それは「ハレ」を失った「ケ」の空間である。「ケ」のみの日常空間とは、本来ありえなかった構成図式であり、交互に反復されるべき要素の不在を意味している。一本調子で平板な日常とは、疲弊地区の住民のあきらめの念に見られるように、自発性を奪い、脱力させ、やがて身体を硬直させる。固まった、あるいは停止した身体がもたらすのは新たな別の脅威、すなわち停止した空間である。「ハレ」と「ケ」の起伏が失われることは、空間のリズムを奪うことであり、リズムの消失は空間からダイナミズムを奪うことに他ならない。

このダイナミズムを回復するために、perforateする身体に注目していく。
「ハレ」としての非日常性が、「ケ」という日常自体の構成要素であることは、「非有機的なつながり」としての異郷人が、「集団のひとつの有機的な構成員」であることと符合する。よって、perforateする身体には「ハレ」を代替する可能性が潜在し、穴を穿つ異郷人の身体は、「ハレ」を失いつつある現代の日常において、その存在が欲望されている。

【居心地の悪さ】
異郷人への期待は、居住者の空間に躍動性を付与することにある。したがって、空間を共有する異郷人と居住者の配合は、アンバランスであることが前提となるが、そのバランスは外的要因によって唐突に反転する可能性や、あるいは時間経過とともに緩やかに変容する可能性をもっている。

バンドンという都市における私の身体は、異郷人としてのそれであり、バンドンを日常とする居住者の中での非日常の象徴であった。一方、私の身体においては、約十ヶ月間の滞在生活がいかに日常に近づこうと、バンドン自体がすでに非日常の空間である限り、真の居住者になるにはまた別の場所を要する。それは本来の日常を回復し、私の場所ではないという「居心地の悪さ」から解放されるはずの空間である。そこにおいて、バンドンで具備していた異郷人の性質は消え、快適で居心地のよい慣れた近傍への帰還を果たす。

さて、ここで冒頭に残してきた疑問を振り返ってみたい。つまり、「居心地の悪さ」やそれに関わる感覚とは完全に消去すべきなのか、という問いである。違和感や場違いの感覚は、果たして全くの否定要素なのだろうか。その答えは、先に述べた「ハレ」を失った「ケ」の空間の脅威によって、すでに与えられている。空間の躍動性を維持するには、「ハレ」の機能が不可欠である。換言すると、「居心地の良さ」に完全に支配された空間とは、「ケ」のみの躍動しない空間であり、やがては無感覚の身体を招く。そこに「ハレ」としての「居心地の悪さ」が投じられることで、空間は活性化される。したがって「居心地の悪さ」それ自体は否定の対象ではなく、むしろそうした違和感を失うことこそ否定される。最大の脅威は、無感覚の身体、まさしくそこにある。

そもそも身体を知る瞬間とは、違和感のときであった。身体装飾や身体加工に伴う苦痛は、自己の身体を知る―身体が押し返されて自己の元へと訪れ来る―装置として機能した(註11)。身体が認識される場に立ち会っているもの、それが「居心地の悪さ」であり、違和感や不調和の感覚であった。「感覚される」身体は、儀礼などの特殊な装置によって永く維持されてきたが、現在それらの舞台装置は都市の中に解体されつつある。したがって、今日の都市においてそれを維持するためには、違和感の持続的な創出を保証しなければならない。儀礼に依拠しない違和感の創出とは、異郷人の創出であり、都市の身体が無感覚の危機から脱する契機は、異郷人に委ねられている。

【異郷人性】
都市にとって、異郷人を積極的に肯定するとはどういうことか。
少し議論を整理すると、まず、異郷人と居住者という設定の前提として、両者は空間を共有している。そして両者の存在が空間に「ハレ」と「ケ」による躍動性を付与する。「ハレ」として機能する異郷人は、その「居心地の悪さ」によって自身の身体を感覚される身体として維持しており、一方、異郷人にとっての「居心地の悪さ」は、居住者の日常空間に違和感となって反響し、居住者自身の身体へと押し返される。居住者はこの違和感によって、自身の身体を感覚しなおすのである。したがって、異郷人の肯定とは、異郷人及び居住者の身体を感覚される身体、すなわち躍動する身体であることを保証する。それはまた、共有される空間自体の躍動性へとシンクロする。

しかしながら、躍動性の維持をただ異郷人にのみ依存することは、都市の現在にとって、もはや十分とは言いがたい。グローバリゼーションの波及や加速する人の移動は、多くの都市において異郷人と居住者の境界付け自体をすでに無効化してしまった。こうした現状に有効に応えるには、異郷人か否かを問うのではなく、異郷人の性質を抽出することである。異郷人のもたらす躍動性とは、異質性をインパクトとしたperforationに起因する。したがって異郷人を肯定する要素は、perforateする身体にあると言える。これを仮に異郷人性と呼ぶならば、都市において肯定される要素とは、この異郷人性に他ならない。それは性質の問題であり、ゆえに異郷人そのものである必要はない。求められているのは異郷人性を有した身体なのである。

 身体に異郷人性を具備することは、何も難しいことではない。むしろ実に容易だと言える。異郷人の「居心地の悪さ」が、居住者の違和感として居住者自身の身体の捉え直しとなったのと同様、居住者の身体も当然ながら異郷人へと反響している。そもそも居住者の身体が異郷人へと押し返されるがゆえに、異郷人の身体は「居心地が悪い」のだ。つまり、両者は相互に異質性をなしており、あらゆる身体はそれぞれの異質性を有している。異郷人ないし居住者という境界の消失にかかわらず、都市における各身体は、少なからず異郷人性を備えた存在なのである。

上述の通り、都市の現在は移動性に満ちており、多くの身体もまた、それ自身の移動によって多様な都市へとアクセスしている。そして各身体は移動したそれぞれの都市において、その空間に相応しい異郷人性を発揮する。すなわち、各都市のアイデンティティに応じてperforateするのである。都市のアイデンティティとは、都市の構成要素を指す。空間を満たしているもの全てが都市の構成要素となり、そのアイデンティティへと作用を及ぼす。人や物の流入及び流出も不断に入れ替わる構成要素として、動態的なアイデンティティを創出している。これにより都市は常に変容過程に位置づけられ、各身体はそこに柔軟にperforateする。そしてperforateする身体及び穿たれた穴が再び都市の構成要素となり、都市のアイデンティティの更新へと寄与する。こうして身体と都市は、互いに躍動性をフィードバックするのである。


むすび.ポテンシャルとしてのperforation
 
あらゆる身体は、あらゆる都市へperforateする主体である。
この主張が指示する「perforation」は、実体性をもたない。現実の土地の上に物理的な穴を穿つのではないため、当然、穴は不可視である。したがって、バルセロナ・モデルのような明瞭な有効性も認めにくい。目に見えないこの穴に、果たして何の効力を見出せるのか。

現在、多くの都市が建築構造物の集積体としての成熟期を迎えている。建物や道路及び各種社会基盤が整った市街地や郊外をもって、都市の完成形と見ることも可能かもしれない。しかしこれらの都市は今、グローバリゼーションによる新たな問題群に直面している。先に述べた疲弊地区の問題は、全世界的な人の移動と結びつき、EU諸国においては更に深刻さを増している。また、急速な少子高齢化は周縁部の過疎化や消費活動の停滞を予見させる。複雑化する都市問題は、従来の都市開発への反省となって、これまで互いに交わることのなかった各専門分野を連携へと導いた。都市計画家や建築家、土木・建設分野の他、環境保全グループや地方自治体など、官と民の垣根を越えた取組みが近年盛んに行われ、コンパクトシティや減築といった「サステイナブル」な再開発へと結実している。領域横断的なこれらの実践的取組みに対して、本論の提示するperforationはますます無効に映るかもしれない。しかしこれこそが、本来いかなる有益な実践にも先行すべき視点なのである。

現在、先進諸国の市民の大部分は、どこにでもある、いわゆる普通の都市に居住している。こうした普通の都市について、トマス・ジーバーツは「間にある都市」と表現し、文化遺産でも田園地帯でもなければ大都市でもなく、歴史的にもまだ浅いが、もはや都市の主要な一パターンであると言う。ジーバーツはこの「間にある都市」を「記憶されない」「無感覚」の都市として危惧し、人々の文化的関心の欠如を問題視する。そしてこの文化的関心、すなわち感情的な意識こそが、都市の維持と管理と責任にとって重要であると指摘する。居住者と都市の新しい関係性を築き上げるために、彼が可能性を託すのは都市デザインであり、その鍵として「美的感覚」を挙げている。人々の「美的感覚」を刺激し、それが呼び覚まされるとき、「間にある都市」はようやく各人の目に発見される。ここで尊重される「美的感覚」とは、いわば都市に対する身体の自発性として捉えることができる。進行中の都市的実践の多くが実学的理論に基づくあまり、この「美的感覚」に対応する部分を放置しつづけるならば、その先に現れるのは、乖離する都市と身体、すなわち再生産される「間にある都市」と、そこに住む自発性を欠いた身体ではないだろうか。

「美的感覚」と機能を重ねるもの、それを身体のperforationに見出すとき、perforationは都市への自発的関与をかなえるものとして、「身体は都市をどう主体的に捉えるのか」という問いへの応答になり得る。ここで重要なのは美的感覚と同様、それを刺激し呼び覚ますこと、perforationの自覚であろう。身体がperforateする自覚をもって都市へアクセスするならば、実感される都市、すなわち身体にとっての一つの現実が変容する。各人における都市とは、建築構造物の集積体であるだけでなく、そこに音や匂い、温度や湿度、肌が感じとる様々な質感等を織り交ぜた一連の空間体験の産物であり、現実的で実体的であるとともに、限りなく感覚的なものである。したがって、主体的に関わることで都市が今までと違って見えてくるならば、それは空間体験の変質であり、各身体にとってはまさに都市そのものの変容と言える。そしてこうした身体が都市に増幅することで、既存の実学的な都市計画及び実践は本来の有効性を発揮する一方、都市というものの捉え方が変わり、都市の実体が意識され直すことで、計画の再検討や実践の軌道修正が都市を刷新へと導くかもしれない。

身体からの新たなフィルターを通して都市を捉えること、すなわちperforationの知見を身体化して都市へ繰り出すことは、都市と身体を相互不可分の関係へと整え、都市をその根本から再構築していく、大きなポテンシャルを備えているのである。

【註】
(註1)
モノから空間への社会資本のパラダイムシフトについて、岡部明子は街路空間を例に説明している。公共投資によるインフラと民間投資の建築物の複合する現代都市において、「通り」の社会資本は道路だけでなく、「道路+道路に面した建築物(ファサード)」と考えられる。すなわち「道路A+建築物B+建築物B´=社会資本」であり(図1)、この指示内容は「空間C」(図2)となるのである。

……その3につづく
  1. 2007/03/13(火) 12:10:31 |
  2. URL |
  3. 本間/perforation-2 #SFo5/nok
  4. [ 編集]

perforation-3

(註2)図と地を反転させたノッリのローマ地図
    公共アクセス可能な部分(街路、広場、宗教施設など)が白抜きになっており、公共空間の連鎖が浮かび上がる図式となっている。民間の建築物は黒く塗り潰されている。



(註3) Bandung(バンドン)
西ジャワ州の州都。インドネシア第3の都市。
標高:768m, 面積:168Km_, 人口:277万1138人, 人口密度:16,494/km_ (2005年)

1809年、イギリスに対する防衛体制の強化を命じられたオランダ軍知事H.W.Daendelsは、バンドンが山に囲まれた低地であり、軍事防衛戦略に適した土地であると判断した。そしてジャワ島の東西を結ぶ道路建設にとりかかり、首都機能をバタビア(現ジャカルタ)からバンドンへ移転するよう命じた。
19世紀のオランダ植民地時代は、バンドン郊外にプランテーションが発展する。気候の良い高原地帯であるバンドンは、オランダ人の避暑地及び居住地として約30万人規模の都市を想定して建設された。西欧的な町並みは「花の都」、「ジャワのパリ」と讃えられる。
1920年、Technische Hogeschoolが設立された。これは現在のバンドン工科大学(ITB)であり、インドネシア初代大統領スカルノの出身校である。
1946年、インドネシア独立戦争の折り、バンドンはインドネシア人自身によって全焼させられる(Bandung Lautan Api)。他国の手に落ちるより、自らの手での破壊を選んだ結果であった。
1955年の第一回アジア・アフリカ会議は、都市バンドンの知名度を飛躍的に上げた。1955年から1959年まで、インドネシア議会はバンドンに移った(1966年ジャカルタに移動)。
現在、バンドンはインドネシア国内の主要な観光地の一つであり、週末には首都ジャカルタなどからの観光客でにぎわう。ショッピングモールやアウトレット店が建ち並び、ファッションの町として知られている。また、12の国立大学の他、多数の高等教育施設を有した学園都市でもある。
ジャカルタからは高速鉄道で3時間半ほどであったが、2005年に開通したCipularang高速道路により約2時間でのアクセスが可能となった。

宗教としては、バンドンではイスラム教が主流である。世界最大のムスリム人口を抱えるインドネシア共和国であるが、イスラム教は国教ではない。国内の宗教人口の割合は、人口の87%がイスラム教、10%がキリスト教、2%がヒンドゥー教である。しかし、各宗教人口の比率は地域によって大きく異なる(以下を参照)。

西ジャワ (バンドン含む) 97%=イスラム
バリ 90%=ヒンズー
東ヌサトゥンガラ 50%=カトリック、30%=プロテスタント、10%=イスラム
北スラウェシ 48%=イスラム、48%=プロテスタント
イリアンジャヤ 60%=プロテスタント、20%=カトリック、20%=イスラム
マルク 55%=イスラム、35%=プロテスタント
東ティモール(独立済み) 90%=カトリック、3%=プロテスタント、3%=イスラム
都市構成は宗教的建築物および配置等の影響を受ける。また、服装規定や生活様式の多くが主流の宗教に拠る。これらは身体の都市へのアクセスに制約を加える、各都市固有の要素である。


(註4)筆者は2002年8月から2003年6月まで、フィールドワークのためバンドンに滞在した。
バンドンを訪れたのはこのときが最初である。

(註5)ゲオルグ・ジンメル「異郷人についての補説」『社会学 下巻』 P.285

(註6)ゲオルグ・ジンメル「異郷人についての補説」『社会学 下巻』 P.286

(註7)ジャン=リュック・ナンシー 『侵入者 いま<生命>はどこに?』
(註8)
出身地ごとに居住区を作る一方で、インドネシアにおける地方移民の一部は循環型である。労働のための都市部での滞在と故郷での生活を往復する。季節労働あるいは数年単位で移動を繰返す彼らは、人生の大半をバンドンで過ごしながらも自らをバンドン人と称する者は少ないだろう。また、こうした出稼ぎ人の従事する職業の多くはインフォーマルセクター(飲食物・生活雑貨の行商人、三輪自転車becakの運転手など)であるが、特に飲食物の行商においては、出身地と商品は密接に関係している。例えば、Sumedang出身者はtahu(豆腐)、Brebes及びTegal出身者はmie baso(肉団子入り汁ソバ)、Majalengka出身者はbaso tahu(肉団子入り豆腐)と言った具合である。
 

(註9)
  学園都市としてのバンドンには、12の国立大学をはじめとする50以上の高等教育機関が置かれている。インドネシアの国立大学受験制度は、全国統一試験の受験結果によって合否が決まり、高い競争率を勝ち抜いた高校生(受験生)のほとんどは上位5位までの大学に進学する。その一つがバンドン工科大学(ITB)である。この全国統一試験に向けた準備プログラムが、現在、新たな産業として定着している。毎年、何千もの高校生がこのプログラムを受講するためにバンドンに滞在する。そして大学入学後も、彼らはバンドンに下宿する。一方、受験に失敗した場合も多くはそのままバンドンに残り、私立大学へ進学したり、翌年の再受験に向けての浪人生活を送ることになる。したがって学園都市としての性格は、国内各地方からの若年層の人口流入を招来している。
 
バンドン内の高等教育就学人口について正確な数値が取れなかったため、参考までに規模の大きな2大学の学生数を挙げる。
    ・バンドン工科大学(ITB)=学生数:約15,000人(2004年)
    ・パジャジャラン大学(UNPAD)=学生数:約40,900人(2005年)
  ちなみに2002年度の西ジャワ州全体の大学生数(国立・私立)は約307,000人である。西ジャワ州の大学がバンドンに集中していることを考えると、学生人口の占める割合の多さが推測できる。
  
また、各学生は大学から約半径3km以内の範囲に下宿するのが一般的である。(ITBとUNPADの2校間の距離は車で約10分弱である。)通学手段が限定されているため(アンコットという乗合いのワゴンバスもしくは徒歩)、大学周辺の居住者層を占めるのは学生である。このことは、地方からの学生という「異郷人」が、学園都市バンドンの構成要素としてすでに了解済みの内包された存在であることを示唆している。そしてまた、学生の集中する居住地区とワルネットの店舗数との比例関係から、都市バンドンのこうしたエリアを、現実と情報の近接と遠隔の濃密な流出の場、すなわち異郷化の不安のうずまく空間とも捉えられるだろう。

(註10)
孔:porosity(ポロシティ)
  2006年6月、「Luminosity/Porosity」というタイトルで建築家スティーヴン・ホールの展覧会が行われた。この展示で彼が追求するのは「光:Luminosity」と「孔:Porosity」の様相からの建築と都市化とランドスケープの一体化であり、さらには「物質」と「精神」の融合である。建築を経験するときの感動は物体としての形状ではなく、「空間の内側、空間の周囲、空間の間といった空間の存在そのものがおこす一連の現象(シークエンス)を経験することによる」とし、孔が生み出す光(と影)の効果を具体的に表した。ホールにとっての孔とは、穿つことにより内部へと光をもたらし、空間を変質するものである。また彼は、都市性に関するキーワードの一つに「融合:Fusion」を取り上げている。建築と都市、都市と自然といった内外の融合について、これらの境界面を主張することでホールは答えようとする。すなわち境界面に孔を開けることで、両者の交通をはかろうとしているのである。


(註11)
ジャック・ラカンの鏡像段階理論は、身体を引き受ける瞬間の違和感すなわち自己矛盾への指摘として示唆に富んでいる。自己の身体は鏡の向こうから押し返されてやってくる。そしてこの自己認識は、鏡に映っている母という他者の承認(「それがお前だよ」という母の眼差し)によって成立し、母という他者の欲望の対象の中に初めて自己の欲望を見定めることができる。それはつまり、異郷人の身体を見て自己の身体を知ることであり、鏡のように穴をのぞき込むとき、穴は欲望の収斂する場なのである。
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  1. 2007/03/13(火) 12:12:25 |
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  3. 本間/perforation-3 #SFo5/nok
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