神楽坂建築塾・塾生ブログ

塾生・研究生・修了生のウェブサロン

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

フェズ・メディナにおける街路の迷路化に関する一考察

【フェズ・メディナにおける街路の迷路化に関する一考察】研究生:三浦

モロッコの概要

 別名マグリブとも呼ばれるモロッコは、地理的にはアフリカ大陸の北西の端に位置している。マグリブとはアラビア語で日の沈む地を意味する。アフリカ大陸とはいえ文化的にはアラブ・イスラム文化圏に属している。つまりマグリブという名にはイスラム世界の西の端という意味合いもある。
 この国の西側には大西洋、北は地中海、東はアルジェリア、南にはサハラ砂漠が広がっており、サハラ砂漠の向こうはブラックアフリカである。モロッコというと日本では砂漠の国というイメージが一般的であるが、地中海性気候、大西洋気候、内陸気候、山岳気候、半乾燥気候、砂漠気候と、その気候は実にバラエティーに富んでいる。季節は雨期と乾期があるが、全体的に降水量は少ないと言える。
 国土面積は44,6万k?(西サハラ除く)で日本の約1,2倍、人口は3008万人(2003年)、そのうちアラブ人が65%、ベルベル人が30%と言われている。ベルベル人とは紀元前3000年頃からこの地に住んでいると言われている先住民族の総称である。宗教的には両民俗ともイスラム教で、国民のほとんどがイスラム教徒である。
 大陸の端にあるこの国はまた歴史にも翻弄された国である。先住民族ベルベル人の土地であったこの地に、紀元前にはフェニキア人が到来してカルタゴの植民地となり、その後、ローマ帝国、ビザンチン帝国の勢力争いの場となり、7世紀にはイスラム教徒、おもにアラブ人が到来。8世紀にはモロッコ最初のイスラム王朝が興る。以後、数々のイスラム王朝の変遷を経て、1912年フェズ条約によりモロッコはフランスの保護領となる。第二次大戦後の1956年、晴れてフランスから独立するが、現在までフランス統治時代の影響は様々なところで多く残っている。

(図1:モロッコの地図)

フェズ

 フェズはモロッコ最古の王都であり、日本ならさしずめ京都にあたると言えるだろう。789年、バグダットのイスラム王朝アッバス朝への反乱に失敗したイドリス一世はフェズ川の右岸にモロッコではじめてのイスラム王朝、イドリス朝を興し、この地を都と定めた。イドリス一世の死後、その息子イドリス二世がチュニジアのカイラワンやスペインのコルドバからの移住者を受け入れ街は大きく拡大した。フェズの旧市街はフェズ川を挟んで右岸をアンダルース地区、左岸をカラウィーン地区と呼ぶが、これはその当時、右岸にスペイン・コルドバからの移住者、左岸にチュニジア・カイラワンからの移住者が住んでいたことに由来する。フェズはその後マラケシュなどに首都の座を奪われるも、いくつかの王朝のもとで発展を続け、宗教、芸術、商業の都としての地位を保ち続けた。首都がラバト、経済の中心がカサブランカとなった今でも、フェズは宗教的中心都市としての威厳を保っている。
 フェズは100万を超える人口を擁するモロッコ第2の都市である。フェズの街はモロッコ内陸北部、リフ山脈とモワヤン・アトラス山脈に挟まれた盆地にある。
 現在のフェズの街の構成は、保護領時代にフランスが建設した新市街と旧市街に大きくわけられる。新市街はヨーロッパ近代の都市計画に基づいて作られている。一方、メディナと呼ばれる旧市街の面積は約350haで、街全体が高い城壁に囲まれ、その内部は細い路地と無数の袋小路が血管のように走り、一つとしてまっすぐな道がない。そこは今でも約36万人の住人が暮らす超過密都市である。細い道に対して隙間なく並んだ家々の壁は高く、通りに面した窓もほとんどないので巨大な迷路を歩いているような感覚に襲われる。迷宮都市として知られているこの旧市街は1976年にユネスコ世界遺産に登録された。

(写真1:フェズメディナ全景、手前は城壁。建物が斜面を埋め尽くしている。)

 このようにフェズの街は迷宮的と形容されることが多いが、なぜこのように迷宮化したのか。一般的な説としては外敵からの防御という事がよく言われるが、2年間フェズ・メディナを歩き、体でこの街を感じた者としてはこの防御説には違和感を覚える。
 本稿では、まずフェズ・メディナの特徴について述べ、その後にフェズ・メディナ迷宮化の過程について仮説を提示することとする。

街の地形と構成 

 旧市街は大きく二つの部分に分けられる。一つは旧市街の中では新しく拡張された部分で、王宮のあるフェズ・ジュディッド(新しいフェズ)。もう一つは、フェズ川の両岸に広がるフェズ・エル・バリ(古いフェズ)である。フェズ・エル・バリは先述のように右岸のアンダルース地区と左岸のカラウィーン地区に分かれており、中央を川に分断されたすり鉢上の地形となっている。このすり鉢の内側は住居や宗教施設、商業施設などに埋め尽くされており、その様子はさながら細胞の顕微鏡写真のようである。街の中心は、フェズ・エル・バリ右岸ではアンダルースモスク、左岸ではカラウィーンモスクである。

(図3:フェズ・エル・バリ断面図)

都市施設と道 

 旧市街には住宅の他にモスク、マドラサ、フォンドク、ハンマムなどの都市施設がひしめいている。モスクは言うまでもなく、イスラム教における礼拝施設であり、多くの人々が祈りのために訪れる。中でもメディナの中心部にあるカラウィーンモスクは北アフリカ最大のモスクである。マドラサはかつてイスラム神学を教える学校であったが、今は大学などに取って代わられ神学校としての機能はなくなっている。フォンドクとは隊商宿のことで、キャラバンを組んで商いをしながら旅をしていた商人達の宿泊施設であると同時に商取引の場であった。今では、その多くが工房や商店として利用されている。ハンマムはイスラム世界独特の蒸し風呂であり、公衆浴場である。各住戸に浴室を持たないメディナの人々にとって、ハンマムはいまでも体を清潔に保つ場であると同時に近所の人たちとの語らいの場でもある。モスクやハンマムなどの施設が、イスラム法に基づく都市計画によって数世紀前から街の主要施設として盛り込まれ、建設されていたというのは驚きである。
 街は高い城壁(城壁とは言うもののフェズ・エル・バリには城や王宮はない)で囲われており、その内部へは門を通って入る。門は10数カ所あり、それぞれが往時の交易ルートに呼応している。例えば、北のギッサ門は地中海方面、南のフトー門はサハラ方面といったように。 
 城壁の内部は曲がりくねった細い路地が多く、今でも限られた場所を除けば自動車は進入できない。また、道のほとんどが階段や坂道なので、今でも物資の運搬にはロバやラバが使われている。メディナの中を歩くと背中に木材や土嚢を満載したロバにたびたび出会う。
 一見無秩序に見える通りには、ヒエラルキーがあり、主要通り、街区通り、袋小路に分けられる。
 主要通りには間口一間から二間ほどの商店がぎっしり建ち並んでいる。肉屋、八百屋、魚屋の他にも雑貨屋や床屋、洋服屋、また、観光都市でもあるフェズでは土産物屋も多く、いつも多くの買い物客で賑わい非常に活気がある。
 商業地域であると同時に生産の場でもあるメディナでは、小さな工房の多い地区へ行くと服や革製品、陶工、金属加工などの現場を見ることが出来る。中でも革製品はこの街の重要な産業であり、タンネリと呼ばれる革なめし場では、様々な色の染料の入った桶が並び職人達が昔ながらの方法で革を染めている。
 街区通りは街区と街区を結ぶ道で広さは主要通りとあまり変わらない。しかし、主要通りと違って商店が立ち並んでいることはなく、せいぜい小さな雑貨店や工房となっているフォンドクがある程度でほとんどが住宅である。騒々しい主要通りとは違って人通りも少なく、パン焼き釜にパンを運ぶ女性の姿や道ばたに座って語らう男たちの姿などが見られる。
 主要通りや街区通りからは無数の袋小路が延びており、中には大人が横になってやっと入れるくらいの道もある。サーバートと呼ばれる道の上に建物がかかっている箇所も多く、薄暗い袋小路はそこに住むもの以外は入り込みづらい雰囲気がある。
 こういった界隈は住宅地であり、通りを挟む高い壁は四角い中庭を持つフェズの伝統的な住宅の外壁である。フェズの住宅はほとんどの場合、壁を隣家と共有しており、建物境界はそのまま道路境界であり前庭もない。また、プライバシー保護のため通りに面した窓も少ないため、住宅街の通りは曲がりくねった壁にかろうじて鉄の鋲を打った重々しい木製のドアが見られるだけの閉鎖的な印象である。
 通りから住居内部へ入ると中庭が屋上まで吹き抜けており、そこから青空が覗いている。部屋は中庭を囲んで配置され、床や腰壁は色とりどりのモザイクタイル、木の梁は緻密にアラベスクが彫刻されているのを見ることが出来る。こういった住宅はかつてのフェズの繁栄を表すものだが、今ではそういった住宅に住んでいた富裕層が自動車の使えない不便なメディナを出て新市街に移り住んでしまったために、手入れもされず放置されたままになっている住宅も多い。
 また、一方では地方からの人口の流入も問題になっている。仕事を求めてフェズにやってきた多くの貧困層が、メディナ内の廃墟同然の住宅やフォンドクに住んでいる。そういったところでは一部屋に一家族といった過密状態で暮らしており、便所や下水道などのインフラが不足し、劣悪な住環境を作り出しているケースが多く見られる。
 喧噪と静寂が混在するフェズメディナ、一日5回、礼拝の時刻を告げるアッザーンが、街中にあるモスクの尖塔から町中に響き渡る。

フェズ・メディナ迷宮化の謎

  先述のようにフェズ・メディナの道が迷路上になった理由としては外敵からの防御が一般的な理由となっている。しかし、上記のように通りにはヒエラルキーがあり、門から主要通りをたどって行けば、比較的容易に街の中心部にあるモスクに辿り着くことができる。地図上で見るとそのルートは、曲線を描いているものの明確な軸を形成している。
  また、城壁や門は外敵からの防御のためだとしても、城壁内部には防衛のための装置もなければ、昔の軍の施設もない。防衛上の機能は、城壁の外周部にあるカスバと言われる城塞、メディナを見下ろす丘の上にあるボルジュと言われる要塞程度である。ゆえに、迷路状の道は防衛のために意図的に作ったものではなく、他の要因によって形成されたものであると考えられる。

それでは、これほど複雑な道路網はなぜできたのか。その要因として以下に
1. 地形
2. 伝統的水路網
3. 高密居住
4. 公私の分離
の4つを挙げる。

1. 地形
フェズ・エル・バリは、底部にフェズ側が流れるすり鉢状の斜面に立地しており、その高低差は距離1kmで100mほどもある。また、すり鉢状の地形とは言ってもきれいなすり鉢ではなく、尾根や谷などがある。ただし、それらの尾根や谷などにはぎっしりと建物が建っており丘の上から見ても細かい地形を読み取る事はできない。しかし、注意しながら街を歩いてみるとその地形を感じる事ができる。例えば、ブージュルード門からカラウィーンモスク方面へ下る主要通りのタラー・クビーラとそれとほぼ平行して走るタラー・スギーラは谷になっており、2本の通りに挟まれた街区は通りよりも少し高くなっている事が解る。同時にそれら2本の通りを結ぶ街区通りは斜面をトラバースする形でほぼ等高線に沿っている。この事からこれらの道はもともとある自然の地形の上を人間が歩きやすいルートで歩いた結果できたけもの道のような自然発生的な道である事が考えられる。そのため、当然道は直線的にはならずに曲がったものとなる。こういった道のでき方は、理性や概念に基づいた近代的な都市計画における道のでき方とは根本的に違っており、身体感覚に基づいた都市の成り立ちを示していると言えるのではないだろうか。

2.伝統的水路網
 フェズのメディナを歩いていると、通りに面して大小さまざまな泉を見かける。それもそのはずでフェズの街の名は泉という言葉に由来するとも言われている。それだけ昔から水が豊かな都市だったと言えるだろう。これらの泉は多くの場合、通りに面した建物の壁にアーチ状のニッチを作り、それをモザイクタイルで装飾し、水はその壁面から突き出した管から流れ出るといったものである。イスラムの教えには水を独占してはならないという教えがあり、街のあちこちにあるこれらの泉が共同の水場であった。現在では近代的水道施設が各家庭に敷設されているが、各街区に数カ所あるこれらの泉は近所の人たちが水汲みや洗い物に訪れたり、ロバやラバに水を飲ませる姿が絶えない。現在では、それらの泉のほとんどは近代的水道施設に接続されているが、かつて泉に水を供給していたのは、フェズ川の水を利用した伝統的な水路網である。
 この伝統的水路網は12世紀に整備されたもので、フェズ川のネットワークを利用しており、メディナ内における上下水道として機能していた。
 これらの水路網はほとんどが暗渠化されており街を歩いていてもそれを目にする事はほとんどないが、住宅の裏口や家と家の隙間などにわずかに発見する事ができる。水路網図とフェズ・エル・バリの地図を重ねて見ると、これら水路網の主要な部分は街路網と一致していると思われることから街路の形成の主要要因として伝統的水路網が大きく関わっている事が予想される。前項(1.地形)で主要通りであるタラー・クビーラとタラー・スギーラが谷に沿って走っていると述べたが、このことはこれらの通りが伝統的水路網の上に形成された事を示していると思われる。事実、タラー・クビーラにあるマドラサ・ブーイナニアの断面図を見ると、マドラサの地下に暗渠の断面を見る事ができる。もともと沢を利用していた伝統的水路網の上にメディナ内の高密化により建物を建てる必要性が生じたため水路を暗渠化し、その上に街路が形成されたと考えられるのではないだろうか。

3.高密居住
 フェズ・メディナは350haに36万人が暮らす超過密都市である。メディナの城壁は古くは左岸のカラウィーン地区と右岸のアンダルース地区それぞれに囲われていた。11世紀後半に二つの地区が統合され現在のような一続きの城壁で囲われた形となった。その当時は今ほど建物は多くなく、城壁に沿って畑や緑地があったようだ。それが、街が発展し人口が増えるにしたがって、城壁に囲まれた限られた面積に多くの人が住まなければならなくなり、自ずと人口密度が高くなったのだろう。また、住宅は通常2層または3層で中庭を持ち、道路境界がそのまま外壁で、隣地境界は隣の家と外壁を共有している。こういった建て方は土地利用効率が非常に高く、高密居住に適している。地形にしたがって曲がりくねった道路に高い壁を建てて住宅を作れば、見通しも利かないためそこが迷路的な様相を呈するのは自然な流れであろう。さらに、すべてを通り抜けできる道とするよりも袋小路とした方がその一番奥にも建物を建てられるため土地利用効率は高くなる。そのために袋小路がこれほど多くなったのではないかと考えられる。

4.公私の分離
 イスラム法はイスラムの本質と精神から発展し、イスラム教徒の生活の道しるべとなり、あるときには行動を規制するものである。この事はまちづくりにおいても例外ではない。例えば、通りの幅や所有権などについてイスラム法による多くのガイドラインを生み出している。こういったガイドラインの一つにプライバシーの尊重がある。住宅においては私的領域を覗き込むような事は禁止されており、この事からメディナの家では通りに面した窓はあまり設置されず、もし設置する場合でも人の背丈よりもかなり高い位置に作られる。この事によってメディナ内の通りは壁に挟まれた閉鎖的な様相を呈する。
 先に「都市施設と道」の項で述べた通り、メディナの道には主要通り、街区通り、袋小路と言ったヒエラルキーがある。これもまたイスラム法の精神に関連する公私の分離の概念から発生したものであるように思われる。主要通りは道の両側に商店が建ち並ぶにぎやかな通りであり、門から入って中心部のモスクまで主要な軸を形成している。これらの主要通り間、または街区と街区を結ぶ街区通りは主要通りのような喧噪は見られず、住宅の壁だけが続く静かな通りである。そして、主要通り、または街区通りから延びる細い路地は多くの場合通り抜けできない袋小路である。ただ、その長さは数mから数百mまであり、通り抜けできるものと思ってどんどん進んでいくと行き止まりという事もよくある。この袋小路は同じ袋小路を共有する住人のためのものであり、他の通りよりもプライベートな感覚が強い。よそ者が入り込まない袋小路ではしばしば子供たちがサッカーをしているのを見かける。
 このようにメディナ内では公私を分離しているが、それは日本における用途地域のように地域で商業地と住宅地を分ける様なものではなく、商店の建ち並ぶ喧噪に満ちた通りのすぐ裏に静寂に包まれた私的な通りがあり、通りのヒエラルキーによって職住近接を実現している。

街路形成のモデル
1. 谷筋を流れる川。街の中心に向かって川に沿って人が歩き、小径ができる。(図7)

2.川に沿って道が形成され、主要通りとなる。(図8)

3.川が水路網の整備とともに暗渠化され、主要通りの両側に商店が建ちならぶ。  (図9)

4.主要通りと主要通りを結ぶ街区通り    が形成される。(図10)

5.街区通りに沿って住宅が作られる。  (図11)

6.奥の住宅にアクセスするために袋小路が形成される。(図12)

結論~身体感覚によるまちづくり

 これまで述べてきたように、フェズ・メディナの迷路的街路網の形成は、従来言われていたような防衛のためといった人為的意図によるものではなく、自然環境とそこにおける人間の行動パターン、そしてイスラム法が複合したものだと結論づける事ができるだろう。
 都市計画の概念は理性、幾何学等のルールが先行し、そこにもともとある地形などの自然要因を人為的に変形させる、または無視する事で都市を形成してきた。そういった都市を見慣れた者にとって、フェズ・メディナのような都市は混沌として無秩序に思えるかもしれない。しかし、実際にそこに住む者にとっては、彼らにだけわかる秩序が存在している。急な斜面を下るとき人はどのように歩くか、斜面を横切るときどのようなルートをとるか、といったことは頭でわかることではなく、「体が自然にそう動く」という種類のものである。迷宮と称され旅人を迷わす街路網でさえ、碁盤目状でどこも同じような表情をした近代の都市の街路と比べれば、道に導かれ体が赴くままに歩いてみれば、そのわかりやすさに気づかされるだろう。
 近代はあまりにも人間の理性に偏りすぎた。その影響を最も受けた先進国、特に日本のような国では、それがまちづくりだけでなく社会全体に反映されている。人にも街にも生命力が感じられないのだ。
 かといって、価値観も時間の流れも異なる文化を現代日本に移植することは不可能に近い。しかし、理性や合理性だけではなく、自然環境に逆らわず、身体感覚を尊重したまちづくりから学ぶべきことは多いと思われる。

参考文献
・ETUDE DE FAISABILITE POUR LA GESTION DES DECHETS SOLIDES
RAPPORT DE FAISABILITE:VOLUME 1 p.10
SADAT ASSOCIATES MAGHREB,RABAT,MAROC
JUILLET,1998
・Etude pour la requalification de l’axe du Boukhrareb
Marcello Balbo,Daniele Pini
・ Fes avant le protectrat
Roger le Tourneau
Edition la porte
Rabat,Maroc,1987
・ Les Encyclop?dies du Voyage Maroc
Guides Gallimard
・ FES de Bab en Bab
Hammad Berrada
Publiday-Multidia,Casablanca,Maroc,2002
・ イスラム世界の都市空間
陣内秀信・新井勇治編
法政大学出版局、2002
・ イスラーム都市
ベシーム・S・ハキーム著、佐藤次高監訳
第三書館、1990
・ モロッコ・フェズの伝統的水路網
三浦正博、矢島 存 共著
水道公論Vol.42
日本水道新聞社、2006
  1. 2007/03/13(火) 13:14:04|
  2. 論文ボックス
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

コメント

フェズの写真等

三浦さん、新規「記事」での投稿、ありがとうございます。
他の方もそうですが、図や写真がないのはやはりちょっと不便ですね。
三浦さんのウェブサイトに、アフリカの写真やエッセイがたくさんあります。本論文に興味を持たれた方は一度ご覧になることをお勧めします。

http://www.d1.dion.ne.jp/~kmiu/
(セネガル、マリの写真だけでなく、肝心のフェズの写真がもっと見たいです!三浦さん!)
  1. 2007/03/13(火) 13:27:33 |
  2. URL |
  3. 渡邉 #SFo5/nok
  4. [ 編集]

フェズの写真は

フェズの写真は「迷宮案内人」の方でたくさん使っているので、フォトアルバムにはしていないのですが、あった方がいいですか?
  1. 2007/03/17(土) 11:10:08 |
  2. URL |
  3. 三浦 #xGBkLi0E
  4. [ 編集]

水路網と路地の関係、非常に興味深く拝読しました。
インドネシアは水については発展途中なので、路地を水路網に重ねることは難しそうですが、地質学的な要因などを調べてみたいとずっと思っています。宗教的要素のほか、風土や歴史的背景など、偶然や必然が絡まりあってできているから、路地は奥が深くて面白いです。

その始め、身体感覚に基づいて構成された迷路的な路地が、時を経た現在のフェズの住人の身体に、そこで暮らすことによって逆に働きかけてもいるのでしょうか。

身体感覚によって町が作られ、その町が新たな身体へフィードバックして、フェズの町の身体性が継承されていくのかな、と思いました…。
  1. 2007/03/25(日) 17:20:07 |
  2. URL |
  3. homma #-
  4. [ 編集]

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです
  1. 2013/06/30(日) 18:12:53 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://kjblog.blog6.fc2.com/tb.php/77-43a396c5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。